ヨガ日記&整体ひやねin沖縄

日々の出来事や気付いた事などをアップしていきたいと思います。

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てぃーだブログ

ヨガ日記

マインド

わたしの純粋な意識も空とかわらず、ずっとあり続けながらも、毎日変わる心(雲)に
右往左往と、振り回されてしまいます。

テレビ、インターネット、SNS(ソーシャルネット)、からの発信を無意識にうけとってしまう
環境での生活。


そんな私達にとって、目を閉じて静かに座る時間は、本当に貴重だと思います。


何度もチャレンジして、読んでみたけど理解できなかった本が、理解できた。
自分の中に入ってこなかった言葉が、入ってきた。

瞑想から目覚めると、そんなことがよくあります。

TAO「老子の道」もそのひとつです。

神や仏といった宗教的な香りを排除して、宗教よりさらに踏み込んだ教えを残した人。

「老子」

2500年前にお釈迦さまが、誕生したのとほぼ同時期に中国で生まれたといわれてる人です。

私たちは、毎日の生活の中で、無意識に流れてる情報にマインドをコントロールされているといっても過言ではありません。

手足が長くて、サラサラな髪の毛、ちいさな骨格の顔をした人を、美しい人と、きめてしまい、
その逆、手足が短く、ごわごわな髪の毛、おおきな骨格の顔をした人を、ブス(醜い)ときめ、
無意識に見ているのです。

そんな無意識の感覚を目覚めさせてくれる経文がこれです。

天下の人が皆、美を美と知ったとき、そこから醜さが起こる。
天下の人が皆、善を善と知ったとき、そこから悪が起こる。

OSHO 「道TAO」 老子の道より

あなたが秩序のことなど考えだした瞬間、無秩序がおこる。
あなたが神のことなど考えた瞬間、もうそこに悪魔がいる。
考えるというのは反対のものに対してしか成り立たないからだ。
考えるということは、
その中に二律背反をふくんでいる。
考えるということは分裂症的なもの。


「無思考の境地に到達しろ」ということが、強調されるのは、そのためだ。

天下の人が皆、美を美と知ったとき、そこから醜さが起こる。

世界は、人々が美というものを忘れたときこそ美しいに違いない。
なぜならば、そのとき、そこには何の醜さもないからだ。
人々が「道徳」などという言葉を完全に忘れてしまったら、
世界は道徳的であるだろう。
なぜならは、そのとき、
そこには何の不道徳もないからだ。

だけど、私たちは、いつも2つのはざまで、選ぼうとし、悩んでいます。

あなたがきれいでいることを選ぶ。すると、醜さがあなたの影になる。
あなたが信心深さを選ぶ。すると、不信心があなたの影になる。
あなたが聖人でいることを選ぶ。すると、罪悪があなたの影になる。
選ぶということは、困難を招くことになる。なぜならまさにその選択が生を分けてしまっ
ているからだ。選ばない。無選択でいなさい。
生を流れさせなさい。
ときとしてそれは、神のようにみえ、ときとして、それは悪魔のように見える。
両方ともビューティフルだ。
選ばないこと。
聖人でいようとなんかしないこと。
さもなければ、あなたの聖人らしさなど本当の聖人らしさではあるまい。

天下の人が皆、美を美と知ったとき、そこから醜さが起こる。
天下の人が皆、善を善と知ったとき、そこから悪が起こる。
つまるところ、有と無は互いに補い合って成長し、
難と易は互いに補い合って完成し、
長と短は互いに補い合ってコントラストをかもし、
前と後は互いに補い合って結びつく。



両方を使いなさい。選ばばいこと。
生とは相互依存だ。罪も使ったらいい。
それがあるのには、目的がある。
さもなければ、そんなものは存在しないはずだ。
怒りも使ったらいい。
それがあるのには目的がある。
さもなければ、そんなものは存在しないはずだ。
何ものも、目的なしに生の中に存在しはしない。
どうしてそれが何の目的もなく存在できよう?
生は意味のある宇宙の秩序なのだ。

反対は本当に反対なのではなく補足だということだ。

それらを分けないこと。それらはひとつなのだ。それらは互いに依存しあう。どうして愛が憎しみなしに存在できよう?
どうして慈しみが怒りなしに存在できよう?どうして天国が地獄なしに可能なものか?

選ばない。両方を楽しみなさい。
両方がそこにあるのを許しなさい。そのふたつの間にハーモニーをつくるがいい。
選ばないこと。
そうすれば、あなたの生は反対同士のかもしだすシンフォニーとなるだろう。

単純そうに見える。ところが一番むつかしい。
なぜならば、マインドというのはいつも選びたがるものだからだ。
マインドというのは選択を通していきのびる。もしあなたが選ばなけれが、マインドは落ちる。
マインドを落とす老子の道とは、選ばないこと。

そうなったならどんな瞑想も必要ない。






瞑想とは、マインドが存在してないということですね。
その逆に、人と会って話をしたり、聞いたりしてるときは、マインドの存在をしっかりと感じますもんね。

自分なりのなんらかの結論をもって、行為してる感(聞く 話す)がありますもの・・・

勉強したり、本を読んだりすることで知識はふえますが、それを熟成させ、智慧に変えていくための
習慣が大切だと、あらためて思いました・・・。

マインド




Yuko hiyane




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プロフィール
SeitaiHiyane
SeitaiHiyane
50代からの身体づくりをテーマにヨガ教室を運営しております。料理、ヨガ、旅をテーマに、日々の気づきを「ヨガ日記」として綴っております。

1970年、南城市出身 豊見城市在住。
『思い込みからの解放』をテーマにyogaをはじめる。
2008年 木村 慧心のもとで3年間『ヨガ療法士養成課程』を修める。
2012年 乳癌の宣告を受け、リハビリ中に大きな気づきを得る。
『もっと自由に自分らしく、そしてアクティブに生きる』ことをモットーに、アシュタンガyogaの練習を始める。現在、アクティブなヨガとセラピーyogaを実践中です。