ヨガ日記
死に様とは生き様
二十九歳で出家したゴータマ・ブッタは、最初、六年間の苦行生活を送っていたそうです。
その苦行は想像を絶する過酷なものでした。
毒蛇や野獣のすむ森に暮らす。
気のとげで肌を傷つける。
ゴミのなかに寝る。
体中を害虫に刺させる。
断食、断水、断息。
そのような精神を集中する修行のひとつとして、ブッタは死体置き場でも瞑想行を行いました。
死臭がただよい、白骨がちらばる墓地に座れば、人はいやでも死を実感し、恐怖で身震いすることでしょう。
古くから墓地での修行がすすめられたのは、そのためだったのだろうと、思います。
そんな六年間の苦行ののち、ブッタは身体を痛めつけるだけの修行の無意味さを悟り、森を出ました
しかし、
その6年の修行がまったくの無駄だったのでしょうか?
いや、そうではなく、この経験があったからこそ、
死を強く意識することが、できたのだとおもいます。
そのことによって人は生の強烈な実感を
つかむことができるのでしょう。
ブッタのいきいきとした生の哲学をささえているものが、その死と隣り合わせの瞑想体験
とどこかでつながっているような気がします。
仏教の中には自分の死をイメージするという行があります。
亡くなった後、自分が極楽浄土へ迎えられる。
そのさまを頭の中でイメージする。
自分の手をとって自分を迎え入れてくれる仏をイメージする。
さまざまな修行の中で真剣に、そういうイメージをありありと自分が実感できるようになる。
事実であると感じられるところまで自分を持っていこうとする行があります。
死のシュミレーションです
死がちかづていて、そこで改めて、死を考えるよりも、今を生きているという、実感。
この生きている状況の中で、死を実感できることに意味があるのだと思います。
人がインドにいくのは、インドに死を見に行くためと、いうけれど、
実は死の裏にある生、それを見に行くためとだと思う
そういうことを考えると、死は、これから生きていく上での最大の力に成り得るテーマではないかと、
あらためてかんじるところです。
死にざまとは 生きざま
自由奔放 わがままほうだいにふるまっていらした、お父様の死をふりかえりながら
はなしていたお友達のことが、印象的でした。
肺がんを患い、病院へ行く車の中で
「うぁんうぁん泣いていた。」
「父は死が怖くてないているのでない。生に対する執着だった」
と、涙を浮かべて話す彼女の優しい顔が、ありました。
「人は生きていたようにしか死ねない」
「毎日 毎日、生きているそのありさまが、死にざまそのものです」
「したい放題、自由に、そしてわがままに逝ってしまったよ。」と、目に涙を浮かべながらの彼女。
死んだらどうなるんだろう。と不安になり、考えるよりも、後悔しない人生、
いかに生きるかに心を配ること。
そんなことを教えてもらった
日曜日の朝でした。
Yuko hiyane
その苦行は想像を絶する過酷なものでした。
毒蛇や野獣のすむ森に暮らす。
気のとげで肌を傷つける。
ゴミのなかに寝る。
体中を害虫に刺させる。
断食、断水、断息。
そのような精神を集中する修行のひとつとして、ブッタは死体置き場でも瞑想行を行いました。
死臭がただよい、白骨がちらばる墓地に座れば、人はいやでも死を実感し、恐怖で身震いすることでしょう。
古くから墓地での修行がすすめられたのは、そのためだったのだろうと、思います。
そんな六年間の苦行ののち、ブッタは身体を痛めつけるだけの修行の無意味さを悟り、森を出ました
しかし、
その6年の修行がまったくの無駄だったのでしょうか?
いや、そうではなく、この経験があったからこそ、
死を強く意識することが、できたのだとおもいます。
そのことによって人は生の強烈な実感を
つかむことができるのでしょう。
ブッタのいきいきとした生の哲学をささえているものが、その死と隣り合わせの瞑想体験
とどこかでつながっているような気がします。
仏教の中には自分の死をイメージするという行があります。
亡くなった後、自分が極楽浄土へ迎えられる。
そのさまを頭の中でイメージする。
自分の手をとって自分を迎え入れてくれる仏をイメージする。
さまざまな修行の中で真剣に、そういうイメージをありありと自分が実感できるようになる。
事実であると感じられるところまで自分を持っていこうとする行があります。
死のシュミレーションです
死がちかづていて、そこで改めて、死を考えるよりも、今を生きているという、実感。
この生きている状況の中で、死を実感できることに意味があるのだと思います。
人がインドにいくのは、インドに死を見に行くためと、いうけれど、
実は死の裏にある生、それを見に行くためとだと思う
そういうことを考えると、死は、これから生きていく上での最大の力に成り得るテーマではないかと、
あらためてかんじるところです。
死にざまとは 生きざま
自由奔放 わがままほうだいにふるまっていらした、お父様の死をふりかえりながら
はなしていたお友達のことが、印象的でした。
肺がんを患い、病院へ行く車の中で
「うぁんうぁん泣いていた。」
「父は死が怖くてないているのでない。生に対する執着だった」
と、涙を浮かべて話す彼女の優しい顔が、ありました。
「人は生きていたようにしか死ねない」
「毎日 毎日、生きているそのありさまが、死にざまそのものです」
「したい放題、自由に、そしてわがままに逝ってしまったよ。」と、目に涙を浮かべながらの彼女。
死んだらどうなるんだろう。と不安になり、考えるよりも、後悔しない人生、
いかに生きるかに心を配ること。
そんなことを教えてもらった
日曜日の朝でした。
Yuko hiyane