散歩と読書
よく晴れたとても気持ちの良い休日に、
近くの川辺へと散歩にでかけました。
こんにちわ。
ひやね ゆうこです。
まぶしい朝の光の中では、何気ない
いつもの道路や橋、走ってる
人までもが、一枚の写真
におさめたくなるほど、
きらきら輝いて見えました。
あたりの木々や、建物、動物たちも朝の日差しに
美しく輝いてます。
足腰をきたえなければとか、体力をつけなくてはと
思いながら、歩いたり走ったりしてた時期も
ありましたが、すぐに飽きてしまい
長続きしません。
目標や結果を意識しながら、歩いたり走ったり
するのも悪くないのですが、いまの私には、カメラ
を持ちながら散歩するぐらいが
ちょうど良いようです。
歩いていると、散歩と読書が似てるなあ
と思うことがたびたびあります。
私は以前、小説を読むときに、
早く物語の展開や結末が知りたくて、
人物描写や風景描写を飛ばしながら、
読んでいました。
目的地まで、いっきに自動車で運転しては、
また別の目的地を見つけ、いっきに自動車で
走るような感じです。
「それと比べ、昔の人は、本のなかをじっくり
自分の足で歩いたのです。」
という 三島由紀夫の言葉に
以前の、地に足の着かないふわふわした自分が、
重なりました。
以下「文章読本」より
「歩けば歩くなりにいろいろなものが目をひき、
歩くこと自体は退屈ですが、目に映るもの一つ
一つを楽しみ味わうことが、歩くことの
喜びを豊富にします。
もちろん、駆ければ十冊の本が読め
るところが、歩けば一冊の本しか
読めないかもしれません。
しかし、歩くことによって十冊の本では得ら
れないものが、一冊の本から得られる
のであります。
小説を自動車でドライブすれば、テーマの
展開と筋の展開の軸跡にすぎませんが、
しかし、歩いていくときには、
これらは言葉の織物であることをはっきり
露呈(ろてい)します。
しかし、現代では文章を味わう習慣よりも
小説を味わうと人は言います。
彼の文章がいいという言葉よりも、
彼の小説はおもしろいと言います。
いまでは、われわれは、文章のディテールを
喜ぶ習慣がほとんどなくなりました。」
わたしは、自分の中で悶々とする何かがあるとき、
誰かが、それを小説の中で言語化してくれてる
その言葉に、なんども救われました。
自分ではどうしようもない感情の
答えが、はっきり見つかるわけで
はないのですが、うまく消化
されるのです。
回りくどい小説独特のディテールは、
それがあるから、ずっしりとした言葉として
私たちに届くのだと思います。
いい季節になりました。
この時期は、
たくさん散歩して、
本の世界に浸ってみようと思います。
YUKO HIYANE